2013年11月18日 04:46

「何となく分かった」は理解ではない

子どもたちから見ると、塾長はよく分からないところで突然怒り出すなどと思われているだろうなと思うことがあります。

もちろん、むやみやたらと怒っているわけではないのですが、それはそれで、彼らが成長したところで、なぜ私が怒ったのか分かってくれるようになればよいと思っています。

塾長も、塾という形で子供たちの教育にかかわって20年以上になるので、怒るところというのは当然学習上重要なポイントにおいてです。その一つが、「何となく分かりました」とか「だいたい分かりました」と生徒が言う時です。

そんなことで怒られるのかと思われる方と、なるほどと思われる方といらっしゃると思います。では、なぜ「そんなこと」で塾長は怒るのか。それは、「何となく分かった」とか「だいたい分かった」ということは分かったような気がしているだけであり、そんなものは理解と呼ぶに値しないからです。また、分かったような気がしただけで済ませるということは、学力向上に全く繋がらないばかりか、将来の深刻な学力不振と、そこから抜け出せなくなる危険性を招くということで、非常によくありません。命にかかわる生活習慣病が、日常の些細に思われる「慣性」から蓄積されて発症するように、深刻な学力不振はものごとのいい加減な理解で納得してしまうような甘さの習慣が大きな原因のひとつです。

些細なことのようでも、将来の深刻な事態につながりかねない発想が、「何となく分りました」からはうかがわれます。だから塾長は真剣に怒ります。

こんなことを思うようになったのも、塾長が浪人生時代、予備校の古文講師が、「解釈というものは快刀乱麻を断つが如きものでなければならない」と言うのが不思議と心に残っていたからです。日本語でも外国語でも、あるいは数学などほかの教科でも、自らの理解というものは人に聞かせてなるほどと思わせるくらいのものでなければならないということは、まともな教育者なら皆同じ意見だと思いますし、子どもたちにもどうかこうした気持ちを持って勉強してほしいと思っています。

さて、しかし勉強していると、何だか分かるような分からないようなことが出てくることも確かです。11月の中学校の中間テスト範囲では、『平家物語』や『万葉集』の歌などが出題されていましたが、たとえば『平家』のいわゆる「扇の的」の中には、「舞いしめ」という語が出てくる。これは、≪扇の的があった場所を「占め」て舞う≫といった意味なのかなどと諸説あるようです。また、『万葉集』からは、「東の野にかぎろひの立つ見えてかへりみすれば月かたぶきぬ」という柿本人麻呂の有名な歌を中学でも学びますが、これも『万葉集』の専門家から言わせれば、そもそも読み方にさえ議論の余地があるということになるそうです(『万葉集』には万葉仮名の読み方が未だに分かっていない歌がいくつもあります)。

こんな有名な文章の解釈にも、はっきりしないことはあるものなのかと驚かれますが、これらの解釈はどうしても「だいたい分かった」ようなものということになってしまいます。

しかし、これは理解ということをそもそも曖昧にしているということでは全くありません。理解しうる事柄については出来る限り努力して完全に解明した上で、なおかつ理解できない部分が残ることを明確にしているのです。これは非常に重要なことです。

子どもたちには、何か難しい問題に当たった時、自分の考える力や記憶力、調べる力を総動員して、ここまでは理解できるが、ここは理解できないということを明確にするよう指導しています。自分は何が分かっていないのかをはっきりさせることは、本気で成績を上げようと思って勉強する基本で、「問題を見たけど全然分からないので教えてください」などといった姿勢では、学力向上など到底望めないということを知ってほしいと思います。

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