2014年01月29日 02:30

館山まるごと博物館バスツアーに参加して

平成26年1月19日(日)、塾長が参加した館山の地域史研究のバスツアーのレポートを掲載します。
 
私と私の家族、息子の友人のご家族とともに、千葉大学教育学部の授業の一環であるバスツアーに参加させていただいた。私のような部外者が千葉大の学生のための行事に参加させていただくことができたきっかけは、国語道場の講師Aさんがこの授業の履修者で、その紹介をいただくことができたことによる。以前、家族で南房総市の大房岬をキャンプで訪れた際、近くの道の駅で、偶然この授業の担当である愛沢伸雄先生の著書『あわガイド』を購入していて、それを塾に置いていた。講師のAさんがそれに気付き、私に教えてくれたという奇縁の導きである。

私自身、これからは中央の歴史ばかりでなく、地域の歴史を学ばなければならないという思いがあって、ここ数年県文書館の講座に参加している。今回のバスツアーでは、そこで学んだこととの関連で興味深いことに出会うことができ、また地域史研究におけるフィールドワークの奥深さを体験することができた。

館山海軍航空隊赤山地下壕跡

赤山地下壕とは、旧海軍館山航空隊基地(現海上自衛隊館山基地)に隣接する赤山という丘に掘られた地下施設である。それが、館山航空隊基地を補完する形で、太平洋戦争前から作られていたのではないかという話には驚いた。世に、日本国は様々な国際情勢の中でやむにやまれず米国との開戦に追い込まれたという説明がある。しかし、赤山地下壕が日米開戦前から作られていたとなると、全く話が違ってくるのではないか。日本は、米国との戦い並びに東南アジア侵略を想定した訓練を館山航空隊基地で太平洋戦争の前から行っていたという話を当日聞くことができたのだが、それだけでなく、館山に東京湾防衛の一大拠点を作っているわけだから、本土を戦場とする戦いをも戦前から想定し、準備していたことになると思われた。

かにた婦人の村

128高地「戦闘指揮所」地下壕 赤山地下壕と比較してみることができて興味深かった。地下基地を作るのに適した土地に周到に準備された赤山に対し、こちらは大戦末期、もろくて地下水の多い所に突貫工事で作られたという。赤山は地層がむき出しのトンネルでも堅牢さを感じさせるのに対し、こちらはコンクリートを壁面全体に吹き付けることでようやく現状を維持している。

「噫従軍慰安婦」石碑 かにた婦人の村の施設がある丘の、眺めの良い所に立つ石碑。ただ「噫従軍慰安婦」と刻まれている。

メディア、政治、教育において従軍慰安婦と言うと旧植民地女性のものがクローズアップされがちである。もちろんそれも大事だが、「噫従軍慰安婦」石碑建立のきっかけとなった城田さんの生涯についての話を通じて、日本人のケースをまず考えたほうが、この問題の実相が理解しやすいのではないかと思われた。

城田さんは、家を「助ける」ために「売春婦」を始めた。しかし、実態は、前借金を背負わされて、人身売買されたのである。彼女の半生を表面的に眺める限り、彼女はあたかも自分の意思で「売春婦」を続けていたかのように見える。しかし、膨らむ一方の借金に、彼女に選択の余地はなかっただろうし、金を「前貸し」してくれる業者に、感謝さえ覚えることがあったかもしれない。

城田さんの話から浮かび上がってくるように思われることは、従軍慰安婦の問題は人身売買を当たり前のこととしていた我が国の経済構造が生み出したものではないかということだった。極めて非人道的なことが、家を「助ける」といった意義深いことであることのように語られ、「売春婦」のようにまるで自由意思で春を鬻ぐ者となったかのように説明される。その背景には、女性の社会的地位の弱さ、教育の不足があって、しかしその上に成り立っている社会を正常なものであると信じ込み、問題を直視しないようにしたいという集団的な意思があるのだろう。

従軍慰安婦問題は、戦地に送り込まれた「売春婦」たちに関するものといった限定的または錯誤に基づいたとらえ方をされるべきではない。それは、女性をめぐる社会の矛盾が、外国への侵略をきっかけに最も恐るべき形で現れたものと考えられるべきである。「噫従軍慰安婦」碑、城田さんについての話から、そのようなことを感じた。

会堂 地下に納骨堂がある。引き取り手もなくこの地に眠る数十柱の女性たちの遺影が壁に並ぶ。葬儀屋が手を加えたような写真ではなく、多くがピントがぴたりと合った生前のポートレートである。会堂のベンチには、一月ほど前に行われたと見えるクリスマス会の手製のリーフレットが置き忘れられてあった。式次第、讃美歌が丁寧な文字で書きこまれていて、表紙にはおさな子とそれを取り囲む動物たちの絵。

Aさんが質問してくれたことを聞いたところによると、この婦人保護施設には、今でも新たな入所者がいるとのことであった。経済格差の拡大や社会保障の縮小という流れの中で、今後もこうした施設の必要性がなくならなくなるのではないかという惧れを抱いた。「従軍慰安婦問題」は歴史認識のそれとしても解決していなければ、人権や労働についての教育、女性の地位といった現代の問題としても未解決のままであるように思われた。

大巌院・ハングル「四面石塔」

1603年、房州里見氏が、千葉の大巌寺住職だった雄誉霊巌をヘッドハンティングして創建した。浄土宗を信仰する徳川家康との関係強化を図ったという。雄誉霊巌はのちに知恩院のトップになっていて、現存する鐘楼などの建物を再建した人とのこと。知恩院の建物のスケールから霊巌がいかに力のある僧であったかが想像され、そのような高僧が館山にいたことにまず驚いた。

四面石塔は2メートル超の直方体の石の柱で、4つの側面にはそれぞれ、梵語、篆書(中国風)、和風の漢字、古ハングルで「南無阿弥陀仏」と彫られている。1624年、雄誉霊巌により建立。当時は前将軍秀忠が大御所として健在だった時代。豊臣秀吉の朝鮮侵略後の、徳川氏による国際親善の努力が行われた時代の雰囲気を感じ、興味深かった。

④青木繁『海の幸』ゆかりの漁村

小谷家住宅と布良崎神社 『海の幸』は誰でも知っている絵であろうが、よくよく考えると非常に不思議な絵である。布良崎神社の氏子代表の方が、布良の漁師は裸で歩きまわっていると思われて、大嫌いな絵だったと仰っていたが、確かに漁の後の様子としてはおかしなところがたくさんある。

女の着物を着て、神輿を担いで村人が練り歩く、当地の祭りの様子を思わせる青木繁のスケッチは衝撃的だ。画家は、一般の人々が考えるような絵のように、実際に見たものを写生的に描いて作品にしているのではない。さまざまなイメージ、その土地の歴史からにじみ出る雰囲気などを幾重にも重ねて、独自の画面を作っていくのだ。芸術家の創作とはどういうものかということについて、新しい認識を持つことができて、興奮を禁じ得なかった。

ブリジストン美術館の学芸員の説として、『海の幸』は神話世界を描いたものというものがあるそうだが、それはそれで、この絵が持っている何か――館山の歴史からにじみ出るもの――を踏まえているようで、興味深い。『古語拾遺』に、房州には阿波忌部氏が上陸し、北上していったという神話があるそうだ。最近知ったことだが、千葉県は47都道府県の中で最も多くの700基以上の前方後円墳が確認されているという。また、1県の範囲に10を超える国造が置かれていたことから、大和朝廷に協力的な有力豪族が多く存在し、王権の東北方面への拡大に参画していたと考えられているという。神話の世界が何らかの史実を踏まえていると考えられる話だが、青木も房州の神話を何らかの形で知り、そうした物語を持つ土地の雰囲気を感じ取っていたと考えられると思った。実証的な研究がないか、機会があれば調べてみたいと思った。

『海の幸』は、房州の神話と歴史がその土地に醸し出す雰囲気を、現実の村人たちの生活や風景に重ね合わせて作られたものなのではないか、というのが今回のツアーを通して私が考えついた意見である。

小谷家住宅に掲げられた海洋生物図 これぞフィールドワークがなければ発見できないものだろう。青木繁の絵手紙に書かれている魚介の名称の元情報と考えられ、すぐそこに青木が寝転んで魚たちの図を眺めている様子が目に浮かぶようである。

ツアー全体の感想

今年の元日の朝日新聞千葉版に、ちょうど千葉大学の明石要一教授の短い文章が載っていた。氏は、千葉の教育は郷土愛を育む努力を怠ってきたといったことを書いていて、全くその通りだと思った。房総には遺物も多いし、古代末~中世の平氏一門の活躍(狼藉?)など、興味深い歴史があるのに、歴史的観光地として人々が多く集まってくるようなところにはなっていないように思われる。近世以降、幕府によって小藩、旗本領に分断され、近代以降は帝都防衛の拠点として利用され、戦後は工業地域として日本中から多くの人々(私の両親も)が流入してきた影響があるのかもしれない。千葉県民の、千葉に対する恐るべき無関心は、地域社会の形成という点でも問題だと思う。

今回の館山ツアーでは、近世以降の歴史を中心に学んだ。頒布されたガイドによると、中世里見氏の歴史に関する学習もあるようだ。われわれの生き方、ものの考え方は、おもに近代の歴史から学び、うちたてられるべきであるのはもちろんであるけれども、地域のアイデンティティーを確立する上では、より地域主権的だった近世以前のもの――房州なら里見――に注目し、体験的に学習するのは有効であるように思う。そうした取り組みが実践されていることは、大変素晴らしいことである。私の住む千葉市なら、やはり千葉氏だろうか。まだまだ知識もなにも足りないので、頑張っていきたいと思う。

館山と千葉で、似たような問題があることも知った。それは、「館山城」と「千葉城」という、一般に誤解を与えかねない施設である。館山では、稲村城跡を国史跡指定にするという努力がなされたと知り、大変感銘を受けた。千葉にも亥鼻、大椎、馬加などの拠点があるはずだが、それらを史跡として大切にしていこうという運動はあるのだろうか。調べてみたいと思う。

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