寺子屋型個別指導が子どもを伸ばす

2021年12月22日

年末ということで、NHK大河ドラマ『青天を突け』もいよいよ最終回ですね。個人的には、千葉県の松戸にゆかりの深い德川昭武(第15代将軍慶喜の弟)がていねいに描かれていたのがよかったです。一般に受けが悪いと言われる幕末ものでしたが、視聴率はけっこう好調だったというのがちょっと意外でした。

これと対照的に、幕末もので視聴率大惨敗を喫したのが2015年の『花燃ゆ』でした。これも個人的には、我々塾人にとって偉大な先輩である松下村塾とそれにかかわった人々が生き生きと描かれていて、よかったと思うんですがねぇ。

視聴率が低かったうえにだいぶ昔の大河ドラマなんで覚えていない方も多いかとは思いますが、江戸時代の私塾や寺子屋は基本的に個別指導の形態をとっていました。現代の学校における学級単位での一斉授業は、1891(明治24)年に出された文部省令によって始まり、現在に至ります。

さて、学級単位の一斉授業形式も100年以上の歴史を持ってはいるわけですが、しかし次のような問題点があります。

まず、子どもの意欲や能力に関係なく、それぞれの子どもの学年のカリキュラムを教えられることです。これは「落ちこぼれ」や反対に学力上位層の「吹きこぼれ」問題につながっています。また、学級担任や教科担任の力量で、子どもたちの意欲や学習到達度が大きく左右されてしまう問題もあります。何年生のときの先生はハズレだったなどといった経験を、どなたもお持ちなのではないでしょうか。

そして、私から見てもっとも大きな問題だと思うことは、学級単位の一斉授業だけの学校は、教えることだけにその責任があり、子どもに身についているのか、出来るようになっているのかについて責任を負っていないように見えることです。

現実に、子どもが学校で習ったことを出来るようにすることについては、塾や家庭教師、通信教育などの民間教育がその多くを担っています。かくして日本は、子どもの教育のために、先進国の中で最も多くのお金を自己負担しなければいけない国のひとつになっています。

学校が、決められたカリキュラムを効率よく教えるために学級単位の一斉授業のみを行い、子どもたちに身に着けることに責任を負っていないとするならば、塾の使命は子どもたちを出来るようにすることです。そのために塾は、明治以前のわが国に伝統的な寺子屋的な個別指導を取ることが望ましいと考えます。

それにしても、『花燃ゆ』の中の松下村塾の光景は活気があってすばらしかった。これを見ていて、私は手前味噌ながらこんなことを思ってしまいました。これって、国語道場に似ているなと。

なぜ江戸時代の寺子屋や私塾のような、国語道場の個別指導で子どもがやる気になり、伸びるのか。

まず、ひとつには、子どもが学びたいこと、学ばなければいけないと思っている教科を学ぶことが出来るからです。国語道場の個別指導では、まず最初に直近の定期テストの得点や順位を生徒自身に直視させ、次のテストの目標を立てさせています。そして、次のテストまでにやらなければいけない勉強の分量を一覧できるようにしています。

二つ目に、寺子屋型の個別指導では、自分のペースで学ぶことが出来るからです。出来るところはやる必要はなく、苦手なところやもっと深く学習したいところに時間をかけられるほうがよいに決まっています。そもそも勉強を自分のペースでないペースでやること自体が不可能なことです。

そして、三つ目に、寺子屋型個別指導では、分からないこと、知りたいことをすぐに教えてもらえることも大きな理由です。「松下村塾は昼夜問わず」と言ったそうですが、国語道場でも、聞きたいことはすぐに、自分の聞きやすい先生に教えてもらえます。

現在の学校のように上から教えてもらうばかりよりも、子どもたち一人ひとりができるようになることのほうが、みんなにとってハッピーなことであるはずです。また、現在みんなが当たり前のことと思っている学級による一斉授業も、実は明治以降の100年程度の歴史しかないもので、世界的に見ても決して絶対的なものではありません。オランダでは、イエナプランといって、逆に日本の寺子屋のような少人数個別指導を公立学校が行っていたりするわけです。

そんなことから、学校の補完として塾があるのではなく、学校の指導形態こそ寺子屋化していくのがよいと思うこともあるんですがね。