「よい」作文についての考え方

2023年05月06日

コロナ禍が始まる少し前でしたか、私が住んでいる地区で行われた小・中学生の作文発表会のようなものを聞きに行ったことがありました。SDGsがどうとか、LGBTQを取り巻く社会制度がどうとか、なかなか「高尚な」テーマを扱うお子さんが意外と多かったですね。

「作文を書け」と言われたときに、周囲の大人からアドバイスを受けたり、インターネットでどのような内容を書くべきか調べたりすることも多いと思います。私が聞いたような、「高尚な」テーマについての作文が多かったのは、子どもたちが作文ではそのような立派なことを書かなければいけない思ったことが理由であるかもしれません。

こうしてみると、作文という課題で実は何が求められているのかということが、多くの人々にあまりよく理解されていないのではないかという心配を抱いてしまいます。なんだか、みなさん、作文というと何かご大層なことを書かなければいけないと思い込んでいませんか?

国語道場の作文指導では、次のような問いを発し、生徒たちに考えさせることがあります。それは、

「入試で、なぜ作文を書かされるのか」ということです。

保護者の皆様も、ちょっとお考えになってみてください。なぜだと思われますか?

書くことが苦手な受験生への嫌がらせでしょうか?

それとも、高校としても特に考えはなく、昔からやっているのでなんとなく課しているだけとか?

答えはいたって簡単です。

本校を受験するあなたという人間がどういう人かを知りたいからです。

千葉県公立高校入試では、実はこうしたシンプルで本来的な作文ではない、長い記述問題とも言うべき「作文」が課されることがあるので注意が必要ではありますが、多くの場合は、受験生のあなたの等身大の姿を見たいというものです。

入試の作文で高い評価を得られるかどうか、または学校などで課される作文で高評価をもらえるかどうかは、「どれだけ自分のことがしっかりと書けているか」にかかっています。

実際問題として、例えば持続可能な社会がどうとかについて作文を書かせてみると、だいたいだれが書いても同じような話になります。いかにもお利口さんが書いたような、血の通わない悪い意味での「作文」ですね。こんなもので人を面白いと思わせることはできません。

では、その作文の評価の核となる「どれだけ自分のことがしっかりと書けているか」とはどういうことでしょうか。

一言で言うと、具体性です。

こう言うと簡単そうですが、これも時になかなか難しいところがあります。「具体的に書け」というだけだと、社会の一般的な事象、つまり他人ごとですね、これを細々と「具体的に」書いてしまったりします。それも学力が高めで、社会科なんかが得意なお子さんなどです。具体的とはどういうことか、なかなか得心してくれないお子さんには、個別に粘り強く指導する必要がある場合が多いです。

具体的に書くとは、何年何月何日、自分が何年生の時、何のイベントで、どこそこの場所で「自分が」何をしたとか、友人や先生がどうしたのを「自分が」見聞きしたとかいうことです。

このように本人についての具体的な情報がたくさん書かれていれば、読む方も面白いと感じやすくなります。この子に実際にあって話を聞いてみたいなあとか、この受験生に是非本校に来てもらいたいなあと思わせる作文とは、こういうことがしっかりと書かれている作文です。

作文が苦手、書けと言われると全く進まないというお子さんは多いです。しかし、このように作文で求められていることは案外明快なのです。

にも関わらず、私自身の経験でも、学校などで作文は何を書くものだといったことをはっきりと教えられていないように思います。多くは、自由に書いて良いなどと言われるのではないでしょうか。

あるいは、「指導者」が、作文とは何をするべき課題なのかを分かりやすく伝える言葉を持っていないとか、そもそも全く分かっていないとかいうことがあるのではないかとさえ思ってしまいます。

そのような者が、原稿用紙の使い方がどうとか、誤字脱字がなんだとか、瑣末なことばかりあげつらっているというのが現実なのかもしれません。これでは、子どもが書けないよう書けないようにしているようなものです。