代ゼミ哀歌

2014年09月09日

先月末の代ゼミの大リストラのニュースには非常に驚かされました。私は、平成元年度の1年間、本科生(=浪人生)として代ゼミ津田沼校に通っていました。少子化の時代、代ゼミのように大教室を各地に展開する予備校は縮小していくことは想像していましたが、実際に津田沼校がなくなると聞き、ちょっとまだ信じられない気持ちです。閉鎖前に、一度代々木ライブラリーに買い物にでも行こうかと思っています。

県下都内で塾を営んでいる私の友人・知人には、代ゼミ出身者が多いです。みな口々に、「さびしい」、「残念だ」と言っています。皆、1980~90年代初頭の「講師の代ゼミ」と呼ばれていたころの生徒です。ユニークで力のある先生方の活躍の場がなくなることを惜しんでいます。

私にとって印象深い先生は、英語の鬼塚幹彦先生、現代文の熊沢直人先生です。それぞれの教科の最も本質的なところを教えていただきました。お二方から学んだことは、私個人のその後の勉強や、今現在子どもたちに教えるベースに繋がっています。

しかし、代ゼミのすばらしかったところは、その「教育」のあり方にもあったと個人的には思います。

若干皮肉っぽい言い方になりますが、代ゼミの「教育」は、校舎のあちこちに貼ってある標語「親身の指導」では全然ありませんでした。完全にほったらかし、放置でした。でも、結果的にはこれがよかった。

代ゼミとしては、こういうほったらかし教育のようなものを、自覚的に行ったのではないでしょう。今から約30年前、多子の時代です。塾・予備校業界はウハウハの時期だったと言われています。正直なところ、生徒一人ひとりに懇切に教えるなんてことはやろうとも思わなかったかもしれませんし、実際できなかったのでしょう。経営戦略とか子どもの成長のためとかいったことではなくて、結果的に生徒を大量に集めてほったらかすということになったのだと思います。

生徒の方はというと、浪人で必死ですから、とにかく一生懸命予習復習をします。分からないことがあっても、10分休憩中に講師控え室には質問の行列で、当時はチューターなんてのもいませんでしたから、聞くこともできない。それで、まあひたすら自分であれこれ調べ倒し、考え抜きます。浪人で時間だけはありますから、徹底的に手間と暇はかける。で、いつの間にか自分で勉強することができるようになるわけです。

私は今、代ゼミをdisっているのではありません。代ゼミで培われた、とにかく手を抜かずに調べ、考え抜くという私の学習姿勢は、大学での研究でも有効だったし、今の塾の仕事において大変役に立っています。こうした力を養ってくれた代ゼミのほったらかし教育に、私は本気で感謝しているのです。同じような感覚の方は、ほかにもたくさんいらっしゃるのではないかとも思っています。

とはいえ、かつての代ゼミのような、生徒大量募集&ほったらかし教育が、たくさんの落伍者を生んだこともまた事実でしょう。今は子ども一人ひとりの特性に合わせて、きめ細かい指導をしていくことで、その子なりの成長を促していくことが基本の時代です。

しかし、時代が変わっても、かつての代ゼミのときと変わらない大切なことが教育にはあります。それは、子どもたちが自分から学び、自分の頭で考えるようになることです。

かつての代ゼミのようなほったらかしのやり方では、できる子とそうでない子との格差が広がるばかりですから、いまさらやるべきことではありません。かといって、なんでも手取り足取りして、子どもに依存心を植え付けてしまうだけような個別指導は、なおのこと許されません。

これからの時代に本当に必要な個別指導は、子どもには自分の力でできたかのように感じられるように大人がうまく誘導し、少しずつ確実に一人で学べるように働きかける指導であるといえるでしょう。国語道場は、このような個別指導の理想系を、これからも追求していきます。